透視霊術のコラム〈第6回〉透視霊術歴史に残る霊能者たち(1)
私どもの先輩とも呼ぶべき、歴史に残る霊能者を紹介しましょう。明治末期に社会現象ともなった「千里眼ブーム」のヒロインたちです。
最初に語らなければならないのは、御船千鶴子。1990年代に大ベストセラーとなった鈴木光司著『リング』に登場する超能力者・貞子の母親のモデルだといわれています。彼女こそ、「千里眼ブーム」の火付け役であり、日本において初めて霊能者という存在を認知させた存在といえるでしょう。
千鶴子は1886(明治19)年に熊本県で生まれました。生まれつき進行性の難聴があり、成人する頃には右耳が聞こえづらい状態だったそうです。22才の時に結婚。しかし、夫の財布からなくなった50円が姑の使っていた仏壇の引き出しにあると言い当てたことで姑が自殺未遂を起こし、それがもとで離婚となって実家に帰ります。
実家では姉の夫、清原猛雄に催眠術をかけられて透視をしたところ、優れた結果を得たのです。その後清原によって修練を積み、万田炭鉱を発見して謝礼2万円(現在の価値で約2000万円)の謝礼を得たりしました。中でも、清原は千鶴子に人体透視をして病気を診断させたり、手かざしによって治療を試みたりしたといいます。
千鶴子の評判が広がり、京都帝国大学(現在の京都大学)の今村教授や東京帝国大学(現在の東京大学)の福来助教授などの学者が研究に取り組みました。
1910(明治43)年4月、熊本を訪れた福来・今村両教授に清原を加えた3人で、千鶴子の透視実験を行います。千鶴子は観衆に背を向け、手元に対象物を持って透視を行うため、これが不審に思われると苦慮した福来は正面を向いて、対象物に触れずに透視を行うよう指示しましたが、千鶴子は拒否。いつもの方法でなら、千鶴子の透視は成功に終わり、福来は彼女の能力を確信しました。そして実験結果を心理学会で発表したため、「透視」という言葉が新聞で大きく取り上げられることに。千鶴子は一気に時代の寵児となり、透視の依頼が殺到します。
1910(明治43)年9月、東京帝国大学元総長の山川氏が立ち会いのもと透視実験を行いますが、千鶴子が成功したのは福来が練習用に千鶴子に与えていたものだけだったことが判明。
この不審な経緯に、新聞は千鶴子の透視能力について否定的な論調を強めていきました。
そんな中、別の霊能者、長尾郁子の念写についての非難記事を読んだ千鶴子は、清原に「兄さん、どこまで研究してもダメです!」と叫んだといいます。
そして、翌年の1月、24才の若さで服毒自殺をはかったのでした。
現代では、千鶴子の透視能力については、疑問視する意見が多数派を占めています。しかし、千鶴子が霊能者であったか否かの真相は彼女の早過ぎる死によって、藪の中となってしまいました。